[Diary]「私の物語」、おわり

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こんばんは、だーすです。
現在時刻は、2025/05/25 20:20。

SNSが主流の現代、noteやはてなブログなどのサービスがある現代、
このような時代に、敢えて、こんなこじんまりとした個人サイトで日記を記すことの意味はなんでしょうかね。
当サイトはSEO対策もしていないですし、多くの人に見られたいという考えもないし、Web広告もないです。
私がただ「したい」と思うからこうしているだけなんですよ。

この文章を読んでいるかもしれない、あなた。
「したい」こと、できていますか?

さて、「私の物語」が終わりました。
そもそも、「私の物語」とは何?、と思われるかもしれません。
当然です、私が長年、明示的に誰にも話していなかったのですから。

「私の物語」は、気づけば生まれていました。
そして、気づけば死んでいたのです。
その結果を、私がようやく観測し、「終わり」と認識したのです。
故に、「私の物語」が終わりました。
ただ、それだけのことです。

当サイトだけの情報だけでは補完できないので、少しの補足を記しておこうかなと思います。
私は、daa_rrsというアカウント名義で、2023年6月頃から「だーす日記」というものを記していたりしました。
書いたり、書かなかったり、自由気侭に、削除したり、復活させたり、日記といいつつも、ルーズリーフに書いて、ファイリングせずに、あちらこちらに散らばっていたような、ただの文章とただの音声データです。
その日記の中で、私が時折、記していた言葉があります。

「私は、私自身を、作品だと思っている」

いつからこういう感覚が身についたかはわからないです。
もしかしたら私以外にも、こういう感覚を持っている人がいて、こうして私のように言葉にしていないだけかもしれない。
どこか客観的で、「こいつは自分のことをなんだと思っているんだ?」とも私が私に対して思ったりもします。

しかしながら、ここで確かに言えることは、「私の物語」は、確かに私の作品の中の一つだったと思うのです。

さて、

「私の物語」は終わりました、どうしよう?

とはいえ、私は今こうしてパソコンをカタカタしており、生物的には生存判定。現在時刻は2025/05/25 20:52。

終わったからといって、達成感のようなものは全くないです。
「あ…終わったんだ。」という感じで、フィクションのようなノンフィクションのようなよくわからない感覚に包まれています。
これを書いていてふと思ったのですが、多分、私が生物的に死ぬ瞬間もこんな感覚な気がするんですよね。
「生物的に死ぬ」までには肉体に強烈な痛みなどが走っている状態かもしれませんが、ついに「死」の瞬間って、ふっ…と蝋燭の灯りを消すような感じだと思うのです。
更に、今これを書いていてふと思ったのですが、誕生日ケーキの蝋燭の灯りを消すのって…なんだか…なんだろう…意味深ですね。
肉体の死についてお話ししたのですが、人間である以上、肉体と精神は切り離せません。
精神も同じような感じですよね。
つらくて苦しくてもう嫌になっちゃって諦めたり人によっては呪いや憎悪や、精神っていろんな貌があるのですが、ついに「精神の死」の瞬間も、ふっ…と蝋燭の灯りを消すのと似ていると思うのです。
個人的にはまだ「肉体の死」は未経験なのですが、こちらの「精神の死」についてはおそらく何度か経験があるので、なんとなく感覚がイメージできます。
現代では「うつ」とカテゴライズされるかと思うのですが、この「うつ」にも強弱や個人差があると思うのでなんとも言い難いですし、私は医師免許をもっていないただのパソコンオタクなので私の発言が正しいとも言い難いですが、「うつ」の中でも、かなり「精神の死」に近い感覚を私は体験したことがある気がするのです。

さて、蝋燭の灯りは消えました。
まっくら。

この状態から、

どうすればいい?

なんの選択をすればいい?

そもそも残っている選択肢は…何?

わからないですね。全くわからないです。

もしかしたら第三者から「私」を見たら「わかる」こともあるのかもしれませんが、現状「私」目線では真っ暗なのでどうしようもないです。
もっとわかりやすく例えますと、「私」のいる場所は停電していますが、第三者はその停電ニュースをテレビで明かりのついた部屋で見ています。この目線の違いについて、おわかりいただけましたでしょうか?

少しばかり話が逸れますが、現代の明かりは、生命の生殺与奪を握っています。
電気がある場所に人が生きています。電流は、この現代の「血液」です。
「電気ってあるのが当たり前」だという「見えない平和」を可視化するかのように「災害」は起こりますね。

話を戻します。
つまり、私は今、おそらく「精神の死」状態かもしれないと考えられます。
何故「である」と言い切れないかというと、これも話が長くなってしまうのですが、要は、

「人は失った後に、失ったものの重要さに気づく」

ということに似ています。

私が「あの時は、精神の死、だった」と認識できるのは、その状態が終わってからじゃないと気づけないのです。

ひとつ、救いがあるとするならば、「私」は、「私の肉体の最期」まで、希望を持ち続け真っ直ぐに生き延びる、そういう性格が根底にある人間です。

だから………

大丈夫でしょう。多分。


少しぼんやりしていました。
現在時刻は、2025/05/25 22:17。

数分前に、無意識にルーチンなバッチ処理が走ってしまい、睡眠導入剤を飲んでしまいました。
こういうときは、パソコンを閉じて、スマホを玄関に封印して、ベッドに拘束しないと碌なことがない私なのですが、こういうときに湧いてくる思考や気づきや旋律もあったりするので、なんとなく今は、ただこれを書いています。

私の体内時計は、一般的な人々とは異なります。連続で眠れる時間は2時間半〜3時間です。最近は睡眠アディショナルタイムを設けるために、長く効く薬に変更したのですが、変更して数日で効かなくなってしまい、睡眠って難しいなぁと思いつつ、追い薬をしてたりするけど、解決になってないのでまた薬変更しないといけないなと感じています。(どうでもいいお話しですね)

「私は私」「誰かは誰か」という考えが以前よりも増している感じがします。
人は、ひとりひとり、唯一な宇宙です。
関連する話かはわかりませんが、「人の思い込みは一度確立したものになると変更することが難しいのではないか」ということを、近年思うことが増えてきました。
それは年を重ねるごとに、思考が固まってきます、個性でもあります。
そして、人は各々の中に「正義」を持っています、それはその人を護るための盾でもあります。
はて、なんの話?

「宇宙人」っていると思いますか?「お化け」っていると思いますか?
ここで確実に言えることは、私は、不確定な非科学的なものより「人」が一番「こわい」です。
でもここで「こわい」という視点から少しだけ見方を変えると、「人には多くの可能性が秘められているなぁ」とも思います。

「神様」に対しては信じていないというか、個人的にお友達感覚で真っ直ぐに接しています。
そういえば今日も神社に参詣してきました。
毎月、いや、毎週かな、神社に通うのが私のルーチンです。
入る前に一礼、手水舎、お賽銭、近況報告と決意、100円のおみくじ(大吉の時は持って帰ります。今日は大吉でしたよ)、深呼吸をすーっとして、神社を見渡し、風を感じ、一礼しておわり。
先述の通り「神様」についてかなり私は親近感をもっていて、真っ直ぐな心でお話ししているかんじです。「信仰」というか「お友達」ですね。私が近況報告と決意をした後に、毎回おみくじをひいているので、「文通」をしている感覚もあります。真っ直ぐ、清らかに、自分に正直に、あり続けます。

さて、そろそろ寝ようかな。
どうせ寝付けないですけども。

おやすみなさい。